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今までの人生で巡ってきたどの3月よりも、今年は悲しかった。


今週の初めに岩手の絵かき仲間の無事がようやくわかり、張り詰めていた緊張が一気に解けました。
本当によかった。

けれど、色んな人や色んなものを失ってしまったようです。

直接関わりのある人が、テレビやネットで観たあの悪夢のような世界で1分1秒を生きているのだと思うと、心臓が締め付けられる思いです。



この3週間、色々なことを考えました。

生きること死ぬこと

人間という生き物の存在

自分の存在についても



小さい頃から「自分は何故生まれてどうして生きるのか」と考えてきたけれど、最後に行き着くのはいつも、そこに理由を問うのはまるで意味のないことだ、という考えです。

時々、自分の意思で生きていると勘違いしてしまうけれど、生命の営みは自然の力によって維持されていて、始まるときも終わるときも選択することは出来ない。


この震災で、都知事が天災だと言い放ったけれど、そのことに対してひどく怒りを覚えたし、つまらない考えだなと思いました。


地球にとって、地震なんて呼吸のようなものでしかない。

地球の上に生きるものたち以上に、地球は生き物。


今まで散々地球を痛め付けてきた人間が、こういう自然災害の時に罰が当たったと考えるのはまさに人間らしいけれど、本当に愚かだと思う。


地球は決して何も奪わない。

それどころかただひたすらに与えてくれるだけ。


奪われたと感じるのは、奪いつづけたことの罪悪感でしかない。



そして、もしこれが天災というなら、なぜそれを受けるのが一部の人達なのか。

起こる出来事の全てに意味を与えるのは人間の特権であり、長所でも短所でもあるけれど、それで人を傷付けてはいけないと思う。




今、私は


人として、多くの人が多くのものを失ったことに対して溢れるほどの悲しみを感じている。


地球の一部として、全てはただ自然のことでそこに意味などなく、悲しむ必要などないのだと受け止めている。


今この瞬間、大切な人たちが生きていてくれることの幸せをただ感じている。


矛盾はいつも隣り合わせなのだと思う。



失われた尊い命の冥福を祈り、再生のために前を向いて歩いていく人々を、自分なりに支えていきたいと思います。
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