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昨日は会社の数人の送別会。
そして今日は昔のバイト仲間たちとご飯。
とても対照的な2日間でした。
私は自分が好きなヒト以外のヒトとの関わり方が非常に淡泊なので、仕事仲間が退職する、あるいは自分が退職したその後、何らかの偶然がない限り、もう二度と会うことがないということを経験として知っています。
勿論、一緒に働いた期間にとても気が合って仲良くなったヒトとはその後もやはり仲が良いですが、そうでない場合は本当に二度と会うことはないです。
仕事仲間として誇れるし大好きであるということと、普段も一緒に色んな話をしたり遊んだりしたいことはやっぱり別。
友達は自分で選べるけれど、家族(親、兄弟)と仕事仲間を選ぶことは例外を除いて出来ないし、共通の話題や価値観がなければ、継続的にお互いに興味を持つというのは難しいと思っています。
一緒に日々を過ごした人々と別れる瞬間はそれなりの寂しさを感じるけれど、結局それもほんの束の間のことで、それによって自分の人生が揺らぐこともなく、また相手にも何の影響も与えることもなく、ただ時折ふと思い返しては懐かしく思う程度の存在として記憶の引き出しへしまい込んでいくものです。
昨日退職した人々とも、恐らくもう二度と会わない可能性があると感じているし、会うとしてもやがて疎遠になってしまう予感があります。
ヒトとヒトとの関係なんて往々にしてそういうモノなのかもしれませんが、私にはそのことが、そういう予感自体がとても辛くて、人前で泣き言を言うのも泣くのも嫌いな私なのに、昨日の別れ際には涙が後から後からとめどなく溢れて、どうしようもなかったです。
一緒にあれだけ毎日沢山の時間を過ごしてきたヒトたちと、それより一歩踏み込んだ関係を築けなかった自分の不器用さを悔やむ気持ちだったり、一緒にもう働けないことを残念に思う気持ちだったり、残る側に与えられたらプレッシャーだったり、そういう様々な思いも涙の理由かもしれません。
十代二十代の頃にはそれぞれの「その後」なんてぼんやりとしか思い描けなかったから、悲観すべきタイミングさえも気付かずに通り過ぎてきたけれど、人生で経験を重ねたことによって、「またいつか会える」ということはただの理想で、その先にある「またいつか」なんてものが存在しない現実を知ってしまったのだと思う。
私がこの考えに至ったには、大事な友達との死別が大きく影響しています。
「またね」と交わした言葉が永遠に実現されない現実が、突然私の人生に起こって以来、ヒトと出会うことの喜びよりも、喪うことの痛みが怖いです。
自分が生きている限り死は訪れるけれど、それを受け止める方法を今以上に知らなかった時期に受けた大きな衝撃が、それ以降の私とヒトとの関わり方に大きな影響を及ぼしたと強く感じています。
だから、なんとなく暇つぶし程度に楽しく過ごせるだけで特に得るものがない関係は虚しく、お互いの時間の無駄遣いだと感じて、出来る限り避けてしまいます。
極端なことを言うと、私自身が一緒に過ごしたいと思えるか、他の誰でもなく私と一緒に時間を過ごしたいと思っているヒトとでなければ、人生の貴重な時間を共有したくないというのが本音です。
生きていれば日々新しい出会いは訪れるし、そのことを嫌悪することはありません。
偶然の出会いの中に、かけがえのない存在となるヒトが勿論います。
無意識の中で自然と繋がっていく縁を大事に思い、そうでない関係を遠ざけるという付き合い方は人間として不器用ではあると思うけれど、私が今現在関わる全てのヒトを大事に思う気持ちには嘘がないとハッキリと言えます。
勿論、縁が途切れるならどうでもいい、とは言いません。
元気で幸せでいてくれたらと心から思います。
生きている限り、またいつか笑顔を交わす日が来る可能性があることも否定はしません。
その可能性の先に、いつかお互いをかけがえのない存在と思えるような日が来たとしたら、それはきっと素晴らしいことに違いないと、私は思います。
今年も今日で半年が終わりました。
仕事の面で色々大変な半年だったので、モチベーションは下がりっぱなしではありますが、そんな陰鬱な気分ともそろそろ別れを告げて、明日からまた頑張りたいと思います。
そして今日は昔のバイト仲間たちとご飯。
とても対照的な2日間でした。
私は自分が好きなヒト以外のヒトとの関わり方が非常に淡泊なので、仕事仲間が退職する、あるいは自分が退職したその後、何らかの偶然がない限り、もう二度と会うことがないということを経験として知っています。
勿論、一緒に働いた期間にとても気が合って仲良くなったヒトとはその後もやはり仲が良いですが、そうでない場合は本当に二度と会うことはないです。
仕事仲間として誇れるし大好きであるということと、普段も一緒に色んな話をしたり遊んだりしたいことはやっぱり別。
友達は自分で選べるけれど、家族(親、兄弟)と仕事仲間を選ぶことは例外を除いて出来ないし、共通の話題や価値観がなければ、継続的にお互いに興味を持つというのは難しいと思っています。
一緒に日々を過ごした人々と別れる瞬間はそれなりの寂しさを感じるけれど、結局それもほんの束の間のことで、それによって自分の人生が揺らぐこともなく、また相手にも何の影響も与えることもなく、ただ時折ふと思い返しては懐かしく思う程度の存在として記憶の引き出しへしまい込んでいくものです。
昨日退職した人々とも、恐らくもう二度と会わない可能性があると感じているし、会うとしてもやがて疎遠になってしまう予感があります。
ヒトとヒトとの関係なんて往々にしてそういうモノなのかもしれませんが、私にはそのことが、そういう予感自体がとても辛くて、人前で泣き言を言うのも泣くのも嫌いな私なのに、昨日の別れ際には涙が後から後からとめどなく溢れて、どうしようもなかったです。
一緒にあれだけ毎日沢山の時間を過ごしてきたヒトたちと、それより一歩踏み込んだ関係を築けなかった自分の不器用さを悔やむ気持ちだったり、一緒にもう働けないことを残念に思う気持ちだったり、残る側に与えられたらプレッシャーだったり、そういう様々な思いも涙の理由かもしれません。
十代二十代の頃にはそれぞれの「その後」なんてぼんやりとしか思い描けなかったから、悲観すべきタイミングさえも気付かずに通り過ぎてきたけれど、人生で経験を重ねたことによって、「またいつか会える」ということはただの理想で、その先にある「またいつか」なんてものが存在しない現実を知ってしまったのだと思う。
私がこの考えに至ったには、大事な友達との死別が大きく影響しています。
「またね」と交わした言葉が永遠に実現されない現実が、突然私の人生に起こって以来、ヒトと出会うことの喜びよりも、喪うことの痛みが怖いです。
自分が生きている限り死は訪れるけれど、それを受け止める方法を今以上に知らなかった時期に受けた大きな衝撃が、それ以降の私とヒトとの関わり方に大きな影響を及ぼしたと強く感じています。
だから、なんとなく暇つぶし程度に楽しく過ごせるだけで特に得るものがない関係は虚しく、お互いの時間の無駄遣いだと感じて、出来る限り避けてしまいます。
極端なことを言うと、私自身が一緒に過ごしたいと思えるか、他の誰でもなく私と一緒に時間を過ごしたいと思っているヒトとでなければ、人生の貴重な時間を共有したくないというのが本音です。
生きていれば日々新しい出会いは訪れるし、そのことを嫌悪することはありません。
偶然の出会いの中に、かけがえのない存在となるヒトが勿論います。
無意識の中で自然と繋がっていく縁を大事に思い、そうでない関係を遠ざけるという付き合い方は人間として不器用ではあると思うけれど、私が今現在関わる全てのヒトを大事に思う気持ちには嘘がないとハッキリと言えます。
勿論、縁が途切れるならどうでもいい、とは言いません。
元気で幸せでいてくれたらと心から思います。
生きている限り、またいつか笑顔を交わす日が来る可能性があることも否定はしません。
その可能性の先に、いつかお互いをかけがえのない存在と思えるような日が来たとしたら、それはきっと素晴らしいことに違いないと、私は思います。
今年も今日で半年が終わりました。
仕事の面で色々大変な半年だったので、モチベーションは下がりっぱなしではありますが、そんな陰鬱な気分ともそろそろ別れを告げて、明日からまた頑張りたいと思います。
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